神童と呼ばれた男

主演のジェット・リー(リー・リンチェイ:李連杰)は、8歳という幼き時から中国武術会の至宝とも呼ばれ中国武術会の神童と呼ばれていました。わずか11歳の頃に、厳しい選考の中から北京武術チーム28人の中の1名に選出されて、アメリカ4都市を親善ツアーでまわり、ツアー最終地のワシントンでは北京武術チームの中から更に選ばれた数名でホワイトハウスで演舞を披露しています。その時の大統領リチャード・ニクソンの前で演舞を披露し、ニクソンから少年リンチェイに『君のカンフーはとても印象的だ。大きくなったら私のSPにならないか?』と話しかけられています。少年リンチェイは『私は大きくなったら、個人ではなく十億の中国人を守りたいです。』と笑顔で答えたエピソードが今も写真と一緒に伝えられています。まさにジェット・リーは中国武術の神童と呼ばれ、中国では功夫皇帝という愛称で呼ばれている大スターです。

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ジェット・リーの生い立ち

ジェット・リーは1963年4月26日に誕生しました。その頃の中国は、1958年に毛沢東のもとで開始した「大躍進政策」がはじまり政治的な混乱が始まっていました。そして中国国土で大規模な飢饉が続くなかで中国の国民たちは苦しい生活を強いられていました。

その中で、ある一組の夫婦のもとで生まれていますが、リンチェイの上には2人の兄と2人姉がいました。5人兄弟の末っ子です。(中国遼寧省瀋陽市)父親は技術者という労働者の家庭でしたが、すでに4人の子どもがいたということもあって、夫婦は赤ちゃんを授かった時には悩みに悩みぬいた末に、中絶することを決めて産婦人科医を訪れました。しかし、祖母から「この子は天才になるかもしれないから。産んだがいい。」という説得を受けて、母親は出産を決意して無事4キロを超える元気な赤ちゃんを産みました。

元々労働者として働き決して豊かな暮らしではありませんでしたが、リンチェイ少年が2歳の頃に悲劇が襲います。ある朝頭痛を抱えながらも上海へ出張に出かけた父親が脳梗塞で倒れてしまい、その翌日に急死してしまったのです。父親の急死で一家の生活はますます困窮していきました。

母親はバス会社でバスの切符売りをしながら、5人の子どもたちと2人の両親の生活費を稼ぐために奮闘していましたが、生活はとてもとても厳しく困窮した子ども時代を送っていきました。

幼年期~少年期

父親が亡くなって4歳になったリンチェイの身体は、4キロで誕生したとは思えないほど痩せ細ってしまっていました。食事はお米ではなく、小麦粉や麦などで満足な栄養がなかっのでしょう。貧しい環境の中でも、リンチェイは決して貧しさのことで不満を口に出すことは無かったようです。

4歳ではありましたが、すでに聡明ぶりを発揮していて遊ぶときには年長の7歳や8歳の子どもたちの中でもリーダー的な存在だったようです。

貧しい中でも素直な少年へと成長したリンチェイは7歳のときに小学校(北京廠橋小学校)へ入学します。すでにリンチェイ少年は身体能力が高く、小学校の中でも班長に選ばれてさらには国民柔軟体操の体操指導員にも選ばれています。体操指導員の仕事は、1年生から6年生に毎日全校で行われる国民柔軟体操のときに指導するという、とても責任のある仕事でした。

リンチェイ少年が着ている服はすべて上のお兄さんやお姉さんからのお下がりの洋服です。男の子であっても、お姉さんからのお下がりの花柄のズボンを履いて学校へ行くこともあったそうです。もちろん周囲から笑われたりからかれたりすることもありますが、決して暴力をふるうこともせず母親に文句を言うこともありませんでした。母親には喧嘩をしないようにと言われていたので、リンチェイ少年は母親の教えをしっかりと守っていたのです。悔しさを味わいながらも、リンチェイ少年は悔しさを自分の努力の原動力として、同級生の誰よりも真面目に取り組みそして努力して、成績優秀な生徒となり先生たちからの信頼と高い評価を勝ち取っていきました。

そんなリンチェイ少年が、ある日ガキ大将に大怪我を負わせることをしてしまいました。なぜリンチェイ少年はガキ大将に大怪我を負わせたのでしょう・・・。それはガキ大将から父親がいないことをからかわれたからです。リンチェイ少年のガキ大将への攻撃というか機敏な動きをみて、体育教師(胡平)がリンチェイ少年に武術の才能があることを発見することになりました。

体育学校へ

1971年の夏(リンチェイ8歳)、夏休みの期間にリンチェイ少年は北京業余体育学校へ送り出されました。この学校は体育のエリート養成学校のようなもので、複数の学校の中から運動能力の高い生徒たちが送り込まれる学校です。そして学校の中では体操・武術・水泳というようなクラスにそれぞれ分けられます。リンチェイ少年は夏休みの間のサマースクールののりで登校しましたが、体育教師胡平の手引きで武術クラスへ入りましたが、まだリンチェイ少年は武術そのものさえも分かっていませんでした。

各クラスは1年生から6年生の1000人余りで構成されていて、夏休みの期間毎日2時間半のトレーニングを受けることになります。もちろんリンチェイ少年は持ち前の努力と真面目、そして勤勉にトレーニングに取り組み武術の腕を上達させていきました。

やがて夏休みの期間が終わり、リンチェイ少年はまた今までどおりの小学校へ戻れると思っていました。しかしリンチェイ少年は夏休み前の学校生活に戻れることはありませんでした。

クラスの1000人の中から選ばれた20人ぐらいの優秀な生徒は、夏休み期間が終了したあとも普通の学校生活を終えた放課後に訓練を受けることになっていたからです。リンチェイ少年が通う北京廠橋小学校からも5~6名が選出されていて、選出された生徒の中に唯一の1年生で選抜されてしまったからです。他の生徒は小学校が終わった放課後には遊べるのに、リンチェイ少年は放課後から厳しいトレーニング。不満を感じながらも3ヶ月の訓練を受けていきました。それからもさらに選抜は進んでいき、脱落者も出てきます。脱落者の中にリンチェイが入ることはありませんでした。訓練はとても厳しくハードなものでした。おまけに季節は冬となり訓練は厳しい寒空の屋外で行われていました。

1972年にはリンチャイ少年は9歳になっていましえた。そして訓練を受けてから約1年後、初めての武術競技会に出場することになりました。この武術競技会は中国全土から選りすぐりの競技者たちが集まる武術大会で、会場は山東省洛南です。9歳というまだまだ幼いリンチャイ少年は、生まれて初めて家を離れることに不安を覚える中での競技会でしたが、その結果は最優秀演技者となる優秀賞を獲得して、中国武術会に『神童』が現ると大きな話題となり9歳にして早くも注目を浴びることになりました。

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体育学校の寮へ

神童として大きな注目を浴びることになったリンチェイ少年は、実家から離れた体育学校の寮へと入寮することになりました。寮の部屋は10人以上で1つの大部屋です。

そして体育学校では一日中武術漬けの毎日です。起床は毎朝6時。点呼のあとに1時間の訓練。朝食の後にはお昼までまた訓練。午後も昼食のあとは少しの昼寝と休憩の後はまた訓練。毎日8時間にも及ぶハードな訓練の日が続いていきます。

学校での生活はとても厳しく、入寮した最初の頃は何回も号泣したこともありました。しかしリンチェイ少年は母親を喜ばしたい一心でひたすら訓練に励んでいました。

実際のところ、リンチェイ少年が体育学校に入寮することで、学校側から食事と衣類の提供を受けることが出来るうえに、毎月60元の補助金も受け取ることが出来ました。貧しい生活の中でこの60元はとても貴重なお金で、一家の生活を安定するにはこの60元はとても貴重でありそして生活を維持することが出来た金額だったのです。母はどんなにかこの末息子を誇りに思ったことでしょう・・。

1974年には数ヶ月に渡る選考を経て、北京武術チーム28人が結成されました。その中でリンチェイもメンバーの一人として選ばれ、渡米する半年前から西洋のマナーや礼儀作法というものを徹底的に教え込まれてアメリカの親善ツアーへと旅立ちました。渡米した人数はかなりの大所帯で、北京武術チーム28人の他に、コーチなど。メキシコを皮切りに半年をかけて武術のデモンストレーションをアメリカで披露していきました。

そしてサンフランシスコを経てからニューヨーク、そしてワシントン入りしてホワイトハウスでアメリカ大統領の前で武術を披露して、一行は中国へと帰りました。

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