結婚と苦悩の時

少林寺シリーズ3作目が終わってからは苦悩の時期が始まります。この時期にはリンチェイの契約期間も5年が満期となる時期と重なったこともあり、リンチェイ自身も3作目で精神的ダメージを深く受けてしまい最初の頃ような気持ちで映画製作に取り組むことも出来なっていて映画製作そのものにも魅力を感じなくなっていました。この頃にはリンチェイ自身も引退を考えていたようです。

5年の契約満了の時期ということもあり、なんとかリンチェイに出演してもらいたい会社側は少林寺ブームが終わったことで次の作品選びにも頭を抱え(この頃ジャッキー・チェンなどは現代劇にすでに転換済み)ていて、どのような作品にリンチェイを出演させるかを思案しますが、リンチェイ自身は引退を考えているということもあってリンチェイに好きな映画を作っていいから出演してほしいということで、リンチェイを説得しました。

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初めての監督作品

説得されたことで、リンチェイは監督と脚本を引き受けますがリンチェイは3作目で感じたいろいろな不条理や不平等をすべて自分の映画で表現することを決めてこの話を受け入れます。そして製作費も潤沢に与えられて撮影を開始させますが、リンチェイは自身が出演したことがある作品は少林寺シリーズの3作品のみ。もちろん経験も豊富でないということは重々分かっていますが、この経験不足を埋めるために必死に映画に取り組みました。そんなストレスがリンチェイの身体に大きな影響を与えてしまったのか、リンチェイ自身の身体に異変も起こり始めていました。

それは度重なる激しい腹痛です。激しい腹痛に耐えながらも、自分は監督という立場もあり決して弱音を吐くことなく撮影が続けられていきました。撮影が開始されたのは、1986年6月に開始して11月の時点では全部の3分の2の撮影を撮り終えていましたがこの頃のリンチェイの様子は、周囲の目にも分かるほどの憔悴状態で、簡単なアクションシーンさえもこなすことさえ難しい状況に陥り、その直後に突然意識不明で倒れてしまいました。

意識不明で倒れたリンチェイはそのまま緊急入院となり、原因が不明状態の奇病のためにどのような治療を施していいのかすら分からない状態で、食事もとることができずに点滴だけで命が繋がっている状態になっていました。リンチェイは輝かしい優勝歴がある中国武術会のスーパースターでもあるため、中国国家の手配で様々な名医がリンチェイの元におくられてきますがそれでも病気の原因を特定することが出来できずに治療を施すことができませんでした。

腹痛の原因を特定するために、お腹の開腹手術を受けることを薦められるにいたりましたがリンチェイは開腹手術を断ります。霊的能力を持つといわれている趙学群の元で治療を受けることを選び、この人に背中をマッサージされた二日後に大量の黒い血を吐血したといいます。そして不思議なことに、それから先も趙学群に治療を受けるたびに少しずつ回復へと向かっていくようになりました。

まだ完全に治ったとはいえない状況の中で、リンチェイは撮影現場へと復帰して入院して撮影がストップしていた分を取り戻そうとしますが、リンチェイにはまだまだ災難が降りかかってきます。鼻を骨折して、その次には高所からの落下シーンで肋骨7本の骨折。またしても当然ながら撮影は中断しました。

製作会社側も、リンチェイの急病とケガを考慮して1987年1月の公開という計画を変更して夏休みの公開を目指して、リンチェイの回復を待つことになり、1987年4月には撮影に助っ人を投入して撮影を進めていきました。撮影が4分の3まで順調に進んだ頃の1987年6月3日に以前から交際していたホァン・チューイエン(黄秋燕)と結婚をします。彼女と結婚することを決めた背景には、体調を崩した時に頼った趙学群による占いで、黄秋燕と結婚すれば家庭はうまくいくと占われたことも影響しているのではと言われています。

ちなみにこの結婚は極秘にされていていました。ホァン・チューイエンと交際していることを認めてはいましたが、公的には2年後に結婚すると公表していて実際にはすでに結婚済みの状態でした。極秘ということもあって、結婚式もしていません。親しい友人にも結婚したことは告げずに両親にさえも入籍してからの事後報告だったといいます。

映画は1987年7月に無事撮影を終えて、1988年2月16日『中華英雄(ファイナルファイター鉄拳英雄)』が公開されました。リンチェイが自分の身を削ってまで撮影に挑んだこの作品ですが、残念ながら評価を得ることは出来ずに興行成績でもイマイチの結果となってしまいました。この作品で特に有名なのが、リンチェイ自身が劇中で行っている採血シーンですが実際にリンチェイが自身の実際の採血ということで有名になりました。

本人もこの最初となった監督作品ですが、この作品がリンチェイ唯一の監督作品となりそれ以降は監督をすることはありません。

渡米

妻が妊娠中のときに以前から夫婦で考えていたアメリカへ移住をします。アメリカへ夫婦で移住したのは1988年で25歳の時です。妊娠中の妻は7ヶ月という時期でした。この時期は映画界から離れていた頃で、夫婦はロサンゼルス近郊に家を借りてアメリカに武館を開いて、武術を教えながら英語習得に1日4時間の英語学習と自身の武術練習そして読書をしていた時期です。

ロスアンゼルスという土地もあって、映画関係者たちとも交流を続けながら多くの武術家たちに武術を教えて過ごしていた時期で妻のホァン・チューイエンは1988年に長女を無事出産します。出産後のホァン・チューイエンの元には「西遊記」などの出演依頼がありましたが、自身は育児や家事に専念することを理由にすべて断り夫婦はアメリカで地に足をついたごく平凡で現実的な生活を送っていました。

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ロー・ウェイからの説得

悪名高い映画人ロー・ウェイ(羅維)がある日リンチェイのもとを訪れます。ロー・ウェイは2人の偉大で絶大なスターブルース・リー(李小龍)とジャッキー・チェン(成龍)というスターを見出していながらも、2人から喧嘩別れのような状態で去られている人物で、ジャッキー・チェンを手元から失っていたこともあって、次なるスターを求めていてリンチェイに目をつけたようです。

ロー・ウェイはリンチェイに映画界に戻るように納得します。そしてリンチェイはついにロー・ウェイの説得を受けて、『風雲人物』への出演を承諾しました。

ロー・ウェイは1970年代からジャッキー・チェンに逃げられてから、必死になっていましたがリンチェイのアメリカ移住は第3のスターを求めていただけに大チャンスとなり、必死になって説得したんでしょう。リンチェイはこの『風雲人物』の撮影がリンチェイ自身の人生を大きく左右する作品になりました。

この作品は『ドラゴンファイト』というタイトルになり公開されましたが、撮影期間は半年未満で終えられているので、これまでの作品が1年~2年かけられて撮影されていたことを考えると、ずいぶん短い期間での撮影となりました。

香港で劇場公開されたのは1989年9月で、ロー・ウェイはジャッキー・チェンを凌ぐ作品を狙っていましたが思惑通りにはいかず香港での興行成績は680万香港ドルにおわり、年間興行成績も62位という惨敗でした。

ニナ・リー(利智)との出会い

映画の撮影は1988年末頃に、アメリカサンフランシスコで撮影が開始されます。この作品で出会ってのは、ニナ・リー(利智)で、リンチェイと同じ大陸出身(1981年上海生まれ)ということもあり容姿は1986年にミスアジアに輝いた容姿で、すっかりリンチェイはニナ・リーに心を奪われてしまいました。

映画の撮影に入ると、妻のホァン・チューイエンと一緒に過ごす時間はどんどん減っていき2~3週間に1度話すだけ程度の夫婦関係になってしまいましたが、1989年には次女も誕生したこともあって育児に忙しくすることでリンチェイとの会話が減ったことや撮影で留守にしている寂しさを紛らわせていました。

ニナ・リーとは撮影中に一緒に過ごす時間があることをいいことに、どんどん親しい関係となりましたが周囲に知らないように隠していたこともあって、ニナ・リーとリンチェイの関係は世間に出ることはありませんでした。そして2人は「10年後に今の気持ちが変わっていなければ、結婚しよう」と約束を交わすまでになっていました。

初3D作品:ドラゴンゲート 空飛ぶ剣と幻の秘宝